ALS(筋萎縮性側索硬化症) 匿名希望 様|船橋で喀痰吸引に対応の訪問介護サービス「ホームグランド」

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ALS(筋萎縮性側索硬化症) 匿名希望 様

○発症から告知
電車が入線してきたので階段を駆け登ろうとしたところ、まるでスロモーションのように左足がゆっくり動くことに違和感を感じたのは2012年3月のことでした。左足に違和感を覚えながら、決算時期で仕事が多忙だったため、近くの病院に通院したのはGW明けでした。その間、インターネットで症状を調べてみると、神経症の病気が検索にヒットし、嫌な予感が脳裏に残ることになりました。病院では、整形外科、内科で検査をし、医師に「神経性の難病でなければいいのですが・・・」と訪ねたところ「血液検査では異常値はない」ということでしたが、不安を感じつつ日々を過ごしました。しかし、子供の運動会に参加した時には、走ることができなくなり、6月に入ってから別の整形外科にも通いましたが、原因は分からずじまいでした。そのうちに左足を引きずるようになってきました。7月に入り職場の産業医の紹介で、職場近くの○○○病院で検査したところ、すぐに検査入院するように指示を受けました。生まれてから入院などしたこともなく悪い予感が脳裏をよぎりましたが、年齢も○○才になっていたので、いろいろ検査してリフレッシュできればいいと思っていました。この時までは・・・。二週間の入院の間に、筋電図をはじめ様々な検査を行い、また、診断的治療として血清○○○の投入も行いました。そして、退院後経過期間をおいて、8月に医師が言いにくそうに「ALSの可能性が高いから、すぐに特定疾患申請をするように」と話された時、心の中で「あぁ、やっぱりそうだったか」と嫌な予感が当たったと思ったのが率直な気持ちでした。病院を後にして、妻と重い雰囲気の中、駅に向かい歩いているとビルの中庭でソーラーカーの展示があったので、二人で写真を撮って最後の一枚となりました。

 

○予兆
今思えば、発症する前年2011年の夏、朝になると両足ふくらはぎが痛みましたが、いつの間にか痛みも消えていたところ、年末に入り上半身を中心にしばらくの間、○○がありましたが仕事で疲れているからだろうと気にかけませんでした。年が明けた2月に入ると毎朝のように足をつるようになり、左足に違和感を感じるようになっていました。

 

○これからどうする?
病気の進行に個人差があり、先々どのように進行するか不安が募る中で真っ先に考えたのは、仕事ができなくなった時これから進学を控えた○○の子供たちの教育をはじめ、生活をどうするかということでした。妻との話の中で「病気になるにして十年後だったら、年齢も○○才になり仕事も子供たちも一区切りがついていたのに」と、早い発症を恨んだりもしましたが、体が動く残された時間を後悔することがないようにできる限りのことをする決意をしました。

 

○どのように病気を伝える?
当時、・・・・・・・・子供たちにどう伝えるか思いあぐねていたところ、ALS協会○○県支部事務局の方のアドバイスも得て、筋肉が衰えてやがて動けなくなり命の選択が必要となることを隠さず話しました。元気だった父親から思いがけない話を聞かされた反応は○○で、到底受け入れられることではなかったでしょう。こうして重い話の後、家族で食べようと子供が冷蔵庫からチョコレートを出してきたので前歯で噛んだところ、歯が欠けてしまい大爆笑となりました。大事な話のあとで変なオチがつきましたが、決して明るくない中でも笑いがあるのが我が家らしく大事なことだと痛感しました。自らの両親にも話したところ「親より先に行くな、頑張れ」と励まされたものの、抗う術のない病なだけに、「わかった、頑張る」とは言えませんでした。

 

○生活と仕事
家族の日々の暮らしに必要な生活を守るため、働くことは大事なことですがいつまで働けるのか不安がよぎる中、職場に相談したところ大変驚かれましたが、治療を続けながら自分が担当する仕事を分けて引き継ぎしつつ、仕事をすることを認めてくれました。仕事を手放すことに寂しさもありましたが、今できることをするように心がけることとしました。

 

○今できることをする
いつまで体の自由が利くか未来の時間が見えない中、入院先の医師から病気を告げられた足で○○県の保健所に行き、今後の相談をしました。そうしたところ、ALSの治療を行っている○○市の○○先生の紹介とALS協会のパンフレットを頂きました。パンフレットに書かれていた電話に直ぐにかけて○まる病院のALS相談室で難病センターの○○先生をはじめ、家族を同病で亡くされた事務局の方から、これからどう向き合っていくか、どう生きていくか、人としての根源にかかるアドバイスをもらい、妻と後悔しないようにできることはしようと決めました。そこで、脳梗塞の治療に使用されている○○が進行を遅らせる効果が期待できるとして、○○医院が自由診療で扱っていたので週3回の点滴と週1回のリハビリを続けることとしました。○○先生からのアドバイスで体重は落とさず筋肉の維持にいいということで、牛肉を中心とした食事を心がけたり、温感湿布がいいと本に書いてあれば試したり、また、自宅できるストレッチ方法をリハビリの先生に習い、体の自由が利くうちは30分くらい続けていました。また、病気になったことで公的な支援を受けるため、特定疾患申請、障害者手帳申請、介護保険受給申請の他、減免申請を行いました。役所に提出する書類の煩雑さは困ったものですが、中でも、障害者年金申請の相談時にもらった書類は発症から申請日まで日を空けず記載する書類など、今やっておかなければならないものでした。治療は続けてきましたが、体は進行を続け、9月に杖を使うようになり、10月には自宅で歩行器を使用し始め、通勤途中の地下鉄のホームで転倒したこともあって、11月に入って自宅では手押車椅子、外では電動車椅子をしようするようになりました。通勤をどうするか職場に前例のないことでしたが、通勤途上の安全に注意することで車椅子通勤を認めてくれました。初めのうちは人の目が気になりましたが、案外気にしておらず安心しました。それどころか、歩道で車輪が溝にはまった時には通りがかりの人が手助けしてくれました。また、職場で受け止めてもらえるか不安でしたが、前もって病気のことを周知してくれたおかげか、抵抗なく事務所に通うことができました。通勤できないときに備えてメールやSkypeを利用し、在宅で事務所の業務を補うことで仕事に対するモチベーションを保つことができました。また、仕事の他にも所属する部活が○○での大会に出場することになったので、「体が動くうちにみんなで旅行に是非行こう」と妻と話して、○○、○○とともに車椅子での手配が容易だった飛行機で出かけました。部活の成果を目で確かめることができ、車椅子に乗り○○まで行った甲斐がありました。できることをしようと思おっても「昨日できたことが今日できない」「今日できたことが明日できない」と、まるで階段を下るように体の自由がきかなくなる中、徐々に衰えていく父親の姿を反映したかのように家族も暗くなりがちだったところ、妻と相談して新しい家族として、子犬を飼うこととしました。
この子犬がのちの我が家に一筋の光と笑顔おもたらしました。

 

○急激な悪化と緊急入院
12月に入り上肢の筋力が落ち始め、肺活量も検査のたびに数値が下がり始めました。この頃から睡眠が浅くなり、検査入院から続けている日記にも「○○の点滴や体にいいと言われることを心がけているのに効果はないのか?」と書き綴ったりしていました。介護ベッドは10月には設置していましたが、体が動くうちは使わないようにしていたところ2月に入ると妻の介助なしでは起き上がりが大変になってきたので、ついにベッドで寝ることとしました。3月になると、まるで坂を転がるように体調が悪化し、呼吸が浅くなり始め、○○医院で勧められてバイパップの装着を始めましたが、原因不明な味覚障害となり食欲を失うとともに、呼吸が浅いせいか声も出しづらくなってきました。自宅で仕事をしている時、きがつくとパソコンに突っ伏していることもありました。
そして、4月早々○○医院での治療中、意識が朦朧としてきた様子を見て、○○病院への入院を勧められて翌日に急遽入院することになりました。病院に向かうため自宅を出た時、帰ってくることができるのか不安が頭をよぎりました。病院に着くと気を失い、きがつくと病院のベッドの上でした。

 

○生きること
この病気に罹る誰もが避けては通れない、自然に生を全うするか、新たな生を受けて生きるか、選択を突きつけられました。もともと、体を動かし話すことが好きな自分が寝たきりとなり、いずれ、意思表示さえできなくなる苦痛に耐えられるのか不安があったこと、また、そのような状態であれば動くこともできず経済的な負担がかかること、介護にかかる精神的、肉体的負担を家族に強いることになると思い、自然体で生を全うするかつもりでした。しかし、妻と子供達の選択は「生きる」ことだけで、周りの人達からも生きていることが大事なことと話してもらいました。考えた上で、家族と生きていくことで気持ちはほぼ固まりつつありましたが、発症して1年、気管切開は早すぎると思い、また、会話ができなくなることも躊躇させていました。
そのような中で食事を満足に摂る事ができず、医師からは栄養補給のため 、胃ろうの手術だけはするように言われましたが、それは胃ろうの手術中に呼吸レベルが低下したときは気管切開する条件付きでした。胃ろうの手術をすると決めた段階で気管切開も覚悟を決めたわけですが ALS協会の方の紹介で会話のできるスピーチカニューレをつけている同病の方が見舞いに来てくれたこともきっかけの一つとなりました。胃ろうの手術は無事終了しましたが、直後から痰があがりいよいよ呼吸も苦しくなり、一週間ほどで気管挿管、気管切開をすることになりました。
気管挿管にあたって最後の肉声の言葉は、今までの気持ちから妻への「ありがとう」でした。また、気管切開の手術に間に合うようにスピーチカニューレを手配してくれて、新たに生きる道を選択しました。

 

○在宅か施設か
これから進学のための受験を控える子供達の心の落ち着きを考えて、○○の高校受験が終わるまでは施設に入ることを考えていました。しかし、施設入居にかかる費用や家族はひとつ屋根の下で暮らすのが一番とのアドバイスもあり、一旦は在宅にすることとしました。ところが、○○の両面が網膜剥離で失明の恐れがあるとの連絡が入り、また、喘息の持病を持つ○○が発作を起こして入院するなど、一時は自宅に戻れる環境ではなく、この間の妻の心労は大変なものでした。二転三転しましたが、父親として子供達の成長を見守るため、妻が住宅を決断したことで4ヶ月ぶりに自宅に戻ることとなりました。

○日々の生活
退院までのわずか二週間でケアマネージャーの方の手配で住宅介護を整えてもらい、住宅ケア生活が始まりました。残された体の機能維持のため、訪問介護師、PT、ST、マッサージ師、ヘルパーの皆さんの協力で、嚥下訓練や四肢の関節が硬直しないように可動域を広げるようにしてもらっています。スピーチカニューレのおかげで会話を楽しみ、嚥下検査の結果、食事の許可も出たので家族と同じものを食しています。発症してわずか1年で気管切開となった進行の早さを考えると、自宅に戻ってからはケアのおかげで心の安定が効果を上げているからか、止まることはないものの緩やかになっています。このような状態で働き続けられるのかと考えるところ、職場ではいつ、誰がなるかわからないからということで、勤務に耐える期間を更新する「住宅勤務規程」を設けてくれました。寛大な対応に感謝しつつ、出退勤の連絡、問合せ、相談への回答、テーマを設けて課題と対処案の取りまとめなど「伝の心」を使って作業しています。までの人生で、人を手助けすることはあっても支えられる経験がありませんでしたが、病気になって介護を受ける立場となり家族みんなが周りの人に支えられながら生活していることに感謝しつつ日々を過ごしています。

 

○生きる希望
夢を見た。
家族みんなで出かけて大笑いしている夢だ。
仕事で出張に行っている夢も見た。
夢よ覚めるな、目覚めても正夢であるように。

 

気管切開をしてから、なんとかペンを持つことができた時の家族へのメッセージです。
ママへ「今までありがとう これからもありがとう」○○の子供達へ「あなたたちはパパの生きる希望であり誇りです。将来の夢に向かって努力して現実させてください。」

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